2011年12月8日木曜日
幸せについて
こんばんは 今日はなんだか寒いので暖房の効いた部屋でいろいろまったりしようとしている松尾です。
先日から、いろいろ「幸せ」について考えています(笑)なんだそりゃ。
特に今の私が不幸なわけでもないのですが、どこかの外国の王様がやってきて幸福度について注目されたりしたからか、「幸せ」とはなんぞや、ということにちょびっと気が向いたのかもしれません。
最近アランの「幸福論」なんかが書店で平積みされたりしてたのを見ましたが、人類の普遍的なテーマだろうと思います。
私の「幸せ」論は簡単。
人は、「なにかを渇望して、それがかなえられると幸せ」で、「かなえられている状態から奪われると不幸せ」だと思います。
「あれがほしいなあ」とか「こうなりたいなあ」が実現すると、それが物質的であれ精神的であれ、かなうと「幸せ」だと思います。
そして、その逆に「いますでに持っているもの、すでにある状態」がなくなると「不幸せ」だと思うのではないかな。
家が欲しいなあ!と思って、いよいよ家が買えたら幸せ。
就職したいと思って、仕事につけたら幸せ。
お腹が空いていて、おいしいものが食べられたら幸せ。
ほしかった恋人ができたら、幸せ。
地震や家事や災害などで自宅を奪われたら不幸せ。
仕事がなくなったら不幸せ。
食べるものがなくなったら不幸せ。
別れたら不幸せ。
・・・こうやってまとめると、人は意外に単純なのかもしれません。
ポイントなのは、「渇望していないのに、与えられても幸せだとは感じない」というところです。
「ほしい」という気持ちと「やった!手に入れた」という気持ちが合体するところがポイント。
だから地デジテレビが29,800円になっても幸せとは感じない。渇望していないものが、そこにごろごろあるだけだから。
それより、「家に白黒テレビがやってきた!力道山を見るんだ!」というときの渇望と入手の喜びは、いくらテレビが月収の何倍であっても「幸せ」だったのだと思うわけです。
もう私たちは牛丼がいくら安くなっても幸せではないのかもしれません。
それより、「もうマグロが食べられないらしいよ」とか、当たり前だったものが奪われた時に、なんともいえない不安感に襲われるわけです。
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そんなこんなで。
愛されたいと渇望している人は、自分を愛してくれる人が現れたら幸せだと思います。
そうでない人にいくら愛してくれる人が現れても、キモイだけかもしれません(苦笑)
「わたしは不幸だ」
とつねに思っている人は、ずっと渇望がかなえられていないのでしょう。いや、かなえられていても、それをきちんと認識していなかったり、気付いていなかったり、さらになにかを渇望しているのでしょう。
幸せになるのは、実は簡単なことです。次回、そのへんの続きを書こうかな。
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