2014年2月10日月曜日

【特別編】 創作をめぐる4つの事件

こんばんは

 相変わらずの遅筆ですが、ちょいと遅ればせながら、「創作をめぐる4つの事件」について書いておこうと思います。

 クリエータ養成講座の<特別編>だと思って、少しお付き合いください。
 
 

 
 ここ最近、創作をめぐる事件が立て続けに起きていて、世の中は面白いことになっています。


 ① 「明日、ママがいない」をめぐるメディアと表現の事件

 ② 「村上春樹」 中頓別町をめぐるフィクション上の「ポイ捨て」事件

 ③ 「佐村河内守」の「ゴーストライター」事件

 ④ 大人気ゲーム?!「Flappy Bird」中止事件


 
 
 
 ざっと、おさらいしておくと、

 「明日ママ」事件はテレビドラマの表現として、施設に預けられた子供達を「(赤ちゃん)ポスト」などと呼ばせる内容はどうか、ということ。

 「村上ポイ捨て」事件は、世界の村上春樹が、小説の登場人物に「この町じゃポイ捨ては当たり前なのかな」的なことを思わせたら、実際の町人が怒り出したということ。

 「佐村河内」事件は、ご存知耳の聞こえない作曲家とされた人物が別人に曲を書かせていたもの。

 「flappybird」はスマホの人気アプリ作家が「もうやめた」と投げ出した事件。


です。

 
 
 
 クリエータ、創作者のみなさんはそれぞれの立場で、いろんなことを思ったり感じたりなさったと思います。

 
 
 
 たとえば、「野島脚本は濃いから、ちょっとやりすぎかなとか「小説の中にまで文句言われちゃかなわねえな」とか「ゴーストはいかんよ、ゴーストは」とか、「人気ゲームで広告収入もあったのに、やめちゃうの?」とか。

 まあ、善悪是非については、好きなように感想を述べ合うのがいいと思いますが、私自身は、少しだけ俯瞰的な見方をして、こんなことを考えています。


 これらの4つの事件の背景に、あるひとつの事象が横たわってるなあ、ということです。

 それは何か。平たく言えば「大衆なるもの」とでもいいましょうか。

 
 ①と②は、本質論で言えば似ています。それは「フィクションにおける表現において制限が加えられるべきか否か」という問題です。そして、その基準は誰が作るのか。

 「フィクションなんだから全面的に自由だ」、とも言えるし、「フィクションであっても、公衆に不利益をもたらすものは自重すべきだ」とも言えます。

 ③は、「誰が、彼をもてはやしたのか」「誰が、彼に感動したのか」という問題をはらんでいます。

 ④は、「作者に『もういいわ』と思わせたのは、誰か」と言う点です。


  すべては、大衆なるもの、のなせるわざです。

 
 
 
 ここまでの表現はいけない。ここくらいならOK。の線引きは、大衆の漠然とした雰囲気が作ってゆきます。法律ではありません。

 純粋な音楽性ではなく、物語性によってその作品が評価されるとすれば、そこには「大衆ウケ・大衆狙い」の何かがうずまきます。

 そして、大衆に疲れたゲーム作者がゲームを終了に向かわせ、あるいはtwitterを終わらせるのです。

 
 明確な法でもなく、あるいは多数決の票でもなく、なんとなくの、総数も判然としない「大衆の雰囲気」がこれからの世界を左右するとすれば、恐ろしいことでもありますね。


 雰囲気で評価されることもあれば、雰囲気でこきおろされることもある。


 私個人的には、あまり望ましくない社会が来ているのかもしれません。


 
 
 
 この大衆性の時代の中で、より正確でよりきちんとした評価を生み出すには、実は評価する大衆の「レベル」が高いかどうかが問題になると思います。

 大衆の芸術的レベルが高ければ、評価される芸術の一定レベルは保たれるでしょうし、大衆の「政治レベル」が高ければ、安易な政策にはなびかず公正な判断がなされるでしょう。

 大衆の経済的レベルが高ければ、大衆の評価と金銭的価値が公正に結びつくでしょう。


 そんなことを、少し考えながら、自身の創作のあり方を見つめてみるのもよいかもしれません。

2014年1月23日木曜日

とある「老人多し」な会議に出て思ったこと。



クリエータ養成講座のネタにもなるなあ、と思いながらの更新なんですが、まあ日記代わりに書いておきます。

先日、とある会議に出てきまして、そこではいろんな活動をなさっている方が、ジャンルバラバラで集まっておられてたので、めちゃくちゃ面白かったのです。



そこに出席しておられた方というのは、たとえばプリザーザーブドフラワーの作り方を教えておられる方とか、植物を育てるグループの世話役の方とか、障害者スポーツを広めておられる方とか、ものづくりのボランティアをしている方とか、それはもう草の根の【何か活動してる人】が満載だったわけです。



僕は、その中で楽器を作ったり本を作ったりしている人、というくくりで出席したのですが、それはもう皆さん、それぞれの立場や枠組みの中で楽しんだり頑張っておられて、とても勉強になりました。

日頃zineに関わっている中では、学生さんとか、若いクリエータの方とか、「創作を通して、自分のありようや立ち位置を模索したい」というひとたちに出会うことが多いのですが、今回の会議ではどちらかというと、

立ち位置は、実はただの主婦


とか

定年退職して好きな活動をしています。



とか、そういうスタンスの人が多くて、逆に新鮮でした。



簡単に言えば、「何者かになりたくてガツガツしている」感がないんです(笑)

そもそも、いつもは主婦だし、とか、そもそも隠居のおじいちゃんだし、といった立ち位置が、とてもナチュラルで、純粋な楽しみやクリエイションのために活動をなさっている感が、自然体に思えました。

僕のブログを読んでいる若い人たちには、むしろガッツでいろんなことにチャレンジしてほしいのですが、年をとってからのゆるーい楽しみも、いいなあと感じたので、つい書いてしまいました。




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それとは別に、やはり出席者のみなさんが、活動家として共通して持っている「あるもの」があったので、それはぜひ紹介しておきたいです。

ある人がガーデンニングの先生であったり、スポーツの指導者としてであったり、あるいは創作グループのリーダーとして活躍するために必要なもの、そしてみんなが持っているもの、それは

活動するための「場」


です。



それは物理的な教室やスペースでもいいし、「仲間」というグループ・人員・人間関係でもいいです。でも、その会議に出席しておられた全員が、どちらかの意味での「活動の場」を持っている、ということがすごく興味深かったのです。

逆に言えば、まだ何者にもなっていない若者、というのは、この「場」を見つけたり掴んだりしていない人のことを指すのではないか、と思ったほどです。



創作はしているけれど、本質的な意味でそれらを提示する「場」がなければ、やはり寂しいですね。



そしてこの「場」は自分で作ることもできるし、どこかに出向いていって「場」に入ることもできるし、育てることも、仲間同士で生み出すこともできるものです。

ぜひ、創作者のみなさんには、「場」というものを意識してみてほしいと感じました。

2014年1月11日土曜日

承認飢餓、なるもの (承認欲求)




前回、前々回の当ブログでも取り上げた記事ですが、元ネタのほうはいろんな反響があったようですね。

 幸い、当ブログは、セカイの片隅で小さくやっております。m(_ _)m あしからず。





 さて、今回は「クリエータ養成講座」とは連動しないものの、同じテーマの記事があったのでご紹介しておきます。





 見える承認欲求、見えない承認欲求   ~承認欲求に苦しんだ女性がたどり着いた「安定」~

 小川たまき さん、というライターの方の記事です。

 骨子は「承認欲求があるのは当然で、それ自体は悪いわけではないが、承認欲求が強いせいで心身に悪影響を及ぼしている場合は、どうすればいいのか」ということです。

 詳しくは例のごとく元ネタをご参照ください。

 特に、

女性で、母親との関係性において複雑な愛情コミュニケーションをとらざるを得なかった人」

が、いわゆる愛情飢餓に苦しむことになるのかな、と感じました。


 たしかに、話がぴったりあてはまる。



 記事の後半には、そうした愛情飢餓、愛着障害を乗り越えた時の強さについて言及があるが、困ったのは、そのための方法が明示されていないことかな。





 いや、そんな簡単な方法なんてないのだが、ポイントはいくつかあると思います。

 ① 承認飢餓を満たすものは、とりあえずは他者からの承認しかないので、他者の関わりが重要。

 ② 承認されているという何がしかの実感をもつこと(きっかけのようなもの)


 なので、記事では、困っている人がいたら何らかの手助けができたらいいね、という当たり前の結論になるのですが・・・。




 ところが、承認飢餓をこじらせてしまった人、というのは、第三者があっさりと「えー、そんなの思い過ごしだよ。あたしは、あなたを認めてるよ」くらいのあったかい台詞ではダメなんです。

 もちろん、人によってですが、そんじょそこらの「承認」では足りないから苦しんでいるのであって、

「じゃあ、あんたが全身全霊をかけてあたしを愛してくれるっていうの?それでも足りないわ」

ということになる場合もあるやもしれません(^^;;


 個人的な感覚では、究極的には、承認飢餓の原体験と向き合わない限り、無理なんじゃないかなあ、と思うのですが、どうでしょうか。


 記事のAさんの例では、「根源がおかんにあるのだから、おかんと向き合って(おかんに愛されていると気づいて)苦しみが解決した」ということですから、そのまんまそうなんです。

 
 クリエータ論で言えばですよ。承認飢餓のせいで「自分は創作者になりたい」と思う人は、創作者になったとしても、その飢えをおそらく満たせないのかもしれません。





 おっそろしい話ですが、太宰治みたいなもんです。何やってもあかん。評価されてもあかん。いつも不安にさいなまされている。

 そりゃまあ、承認飢餓によって、「創作に向かうベクトル」が生まれることは悪くないし、その結果仮に「有名になれた」とすれば悪くない。

 けれど、それで「その人は幸せなのか?!」と問えば、怪しいわけです。


 だからです。ここからは私の個人的主張ですが、創作によってアナタ・ワタシが残すべきものは「名声や承認」ではなく、「文化」だと良いよね、だと思うのです。


 文化、ということばだけではわかりにくいでしょう。




 うーんと、簡単に言えば「賞賛や承認があるからその作品がすごい」という結果を求めるのではなく、「その作品が次の時代を作った」とか「その作品が文化として受け継がれた」という結果を求めたいよね、という感じですね。


 承認がなくても、文化として残る創作物はたくさんあります。マニアしか知らないけど凄い作品とか、みんなが当たり前に使っているけれど、誰が発明したかなんて知らないものとか。

 でも、それを作った人はわかってます。自分で自分のことをわかってる。

 ああ、これがいろんな人に使われて、これがいろんな人に伝達されて、(誰もほめてくれないけど)ああ、よかった。

と自分で自分を承認できるからです。


 承認とは結局は「自己承認に至れるか」ですから、自己承認できる方法論として「他者からの承認」はほんとうはあってもなくてもいい。

 けれど、「他者からの承認」は簡単なので、それが第一段階になっているだけです。


 そんなことを感じました。

2014年1月9日木曜日

【松尾バイトの「クリエータ養成講座」5.5】  あなたは誰に認められたいのか?



こんばんは


 昨日の記事でまるっとごりっと問題提起をした私ですが、今日はちょびっとだけ解答編。
 創作者として「アナタ・ワタシは誰の承認を得たいのか?」という根源的な問題ですが、実は悩んでもがいた挙句の答えはすごく単純だったりします。


 まず、もっとも究極な答えは
 「それは自分自身である」
ということに他なりません。


 ゲージツは、他者を対象にしているようでいて、実は自分自身の納得との戦いです。だから、答えは「オレ・あたし」でいいのです。
 ところが、これが一番たいへん。自分の創作・じぶんのやっていることを自分で完全に認めるには、ものすごい労力がかかります。
 ある人は、時間をかけて納得してゆくでしょうし、ある人は手間をかけて、そしてまたある人は、突き詰めてつきつめて自問自答して見出してゆきます。
 だから、これは「悟りをひらけ」といっているのに、かなり近い。


 なので、凡人はまず、他者の承認から入るのです。
 「おとうちゃんに認めてもらった」「おかあさんが応援してくれてる」「ともだちにいいね、って言われた」などの身近な人の承認が、まずは容易いところでしょう。
 それから、知らない他者からコメントをもらったり、賞をとったりしながら、人は他者からの承認を「自分の中に納得させてゆく」のです。
 ああ、みんなからも承認されているらしいので、自分でもようやく自分を認められそうだ、と。


 ビジネスの世界では、逆にあえてターゲットを絞ることで、商品を知ってもらう、認めてもらう、ということを計画します。
 すべての人に受け入れられることは難しいけれど、「OLさん向け」とか「老人向け」とかそういう風に対象を絞ると承認を得易くなるからです。


 ゲージツにおいても、営業的にはおんなじで、だからこそ「純文学」と「大衆小説」と「ライトノベル」はジャンルが分かれているのです。
 究極的芸術的価値において、吉川英司と村上春樹と田中芳樹のどれがすごいか、と問われても、わからんでしょ?
 結論はどれもすごいんです。
 けして、村上春樹だけが芸術なわけではありません。「宮本武蔵」は史実としてはうそばっかり書いてありますが、今や史実を乗り越えているし、「銀河英雄伝説」はすでに「伝説」の領域です(笑)


 漫画で言えば、「ドラゴンボール」と「ねじ式」と「ガラスの仮面」のどれが芸術かってことです。
 結論は、どれも芸術です。ねじ式に引っ張られる人はちょっとガロなだけで、美内すずえファンに至っては、もう生きてる間に完結するのか?って感じです。もちろん、鳥山先生の影響力は絶大です。
 話がわけのわからん方向へ行きましたが、わたしはやっぱり「パタリロ」のファンです。ちゃんちゃん。
 

2014年1月8日水曜日

【松尾バイトの「クリエータ養成講座」5】  あなたが認めてほしい相手は誰か?



 おひさしブリーフ。こんばんは。


 私の某活動の弟子(?)にすっごいイケ面でさわやか青年がいるのですが、メールをくれるといつも「おひさしブリーフです」と面白いんだか面白くないんだかわからない書き出しを書いてきてくれます。



 彼の好青年ぶりを知っているだけに、よけいにくすっと笑ってしまいます。それを、今年前厄のおっさんが使うとどうなるか実験してみましたので、ぜひご感想をお寄せください。

 きっと超おもしろくないと思います。嫌悪感を抱かれた方、ごめんなさい。ゲッツ!




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 そんなアホなお話は、横へ置いといて。前年秋より絶賛中断中の「クリエータ養成講座」を再開します。

 私の知り合いというかなんというか、仕事をちょっとだけいっしょに出来て嬉しいお友達の方がおられるのですが、彼女が自身のサイトに「まだ何者でもありません」と書いておられるので、心から申し訳なく思い心を新たにしました。

 そうそう、このブログはまだ何者でもないアナタ・ワタシのために、何者かになってもらうお手伝いをしようと思って書いていますので、初心を忘れていた私はいけません。万死に値します。

 言い訳をしてもいいですか?消費増税の駆け込みせいで本業がやたら忙しいのです。毎日遅くまで残って仕事しています。春になれば暇になります。きっと。
 



 ちなみに記事は更新していませんが、ずっと心より応援しております。そう、そこのあなたです!


 閑話休題。


 今日は面白い記事があったので、そこから講座を再開します。すべてのクリエータ志望の若者の内臓をえぐるような痛々しい話をちょびっと。




 大学生に見る若者の「承認欲求」の現在
 



 関西大学の先生による、「大二病」のネタです。若者はとかく、誰かに承認されたがっている。というお話。

 上記記事は、主に大学生をメインに捉えて書かれていますが、我々「クリエータもどき」にとって、自分に置き換えるとなかなか痛いお話に聞こえてきませんか?

 クリエータをめざす、すべての若者はみな「クリ2病」です(笑)

 オレは、ワタシはちょっと人とは違うんだもんね。オリジナリティが大事だもんね。ゲージツが好きだもんね。とうそぶきながら、それでいて、自分がどこをめざしているのか、何を残そうとしているのかよくわからなくて悶々する日々。

 そんな見失った自分を肯定するように、さらにゲージツなるわけのわからない自己表現に磨きをかけ、たぶん周囲からみてもちょっと変わったやつ呼ばわりされて、でもちょっと嬉しいような寂しいような。

 
 それを否定しているのではありません。すべてのクリエータが通るみちであり、すべての文豪が通るみちです。

 クリ2病患者が、クリエータとして一皮むけて脱皮し、完全変態を遂げるというのはどういうことか。

 クリ2病がクリ2病のままこじらせてしまうのと、創作者としてひとり立ちするのとは何が違うのか。


 そのひとつのヒントが、やっぱり上の記事に書かれている。それは、





 アナタ・ワタシは誰に承認されたいのか



ということなのです。




 みんなに。世界に。誰かに。世間に。


 漠然とした承認欲求だから、痛い行動になってしまう。逆に言えば、あんたの軸足はどこにある?ボクの立ち位置はどこ?

 そう、アナタは誰を見ていて、誰にみられたいのか、をこの際考えておきましょう。





<実習> あなたは創作活動において、誰に承認されたいのか、明確にしなさい。


 

 まあ、この際その対象が変わっていったり、ジャンルがずれていっても全然OKです。ただ、一回は、やっぱり軸足を明確にしとかないとね。



 ちなみに、これを読んでいるあなたへ。私はあなたを承認してますよ!世間的な結果は二の次でいいんです。それはかならず、結果として現れます。


 でも、そこへ向かってもがいているあなたがいるなら、そんなあなたを私は認めます。


 あきらめてしまったら、そこで試合終了なんです。Byスラムダンク


 

 カッコつけて、もがくあなたをみせまいとして辞めてしまうのなら、そこまで、ってこと。そんな人は結局誰からも承認されやしません。

2014年1月7日火曜日

レイヤー化する世界 ~個人でもモノが売れる時代の到来~



あけましておめでとうございます。



 昨年の後半は、当ブログの更新頻度がめっきり落ちてしまいましたが、ごめんなさい。全部消費税の駆け込み需要のせいです。本業のほうが大忙しで、ブログをまとめる時間もありません。



 今年は、もうちょっといろいろ書いていきたいなあ、と個人的には思っているのですが、まあボチボチお待ちください。


 さて、興味深い記事があったので紹介しておきます。

 現代ビジネスさんより

 「レイヤー化する世界」

 
 記事は田原総一郎さんと佐々木俊尚さんの対談なのですが、昨今のメディアの状況をわかりやすくまとめておられます。




 話の概要は、これまでもよく言われているとおり、「大手メジャー」から作品が出せなくなって、個人でもコンテンツを提供できるようになる、という話なのですが、面白いのは、メディア産業だけでなく、自動車産業などのいわゆる「モノ作り産業」でも似たような傾向が起きる、という部分です。

 記事は、今後後編へと続くそうなので、楽しみです。



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 さて、そうした前提をふまえた上で、当ブログの読者さんに求められていそうなツッコミを入れておきましょう。

 大手メジャーに拾われてそこからデビューさせてもらえるごく一部の人たち、というのがいなくなるというのはよくわかります。

 素人でも個人でも、ネット等を通じてヒット作を生み出せる人が現れる、というのもわかります。

 ところが、こうした言説が広がっている時に、「ネットでヒットを生み出せる個人」の偶発性というか、「たまたま性」というか、そこらあたりをはっきり示していることが少ないように思うのです。

 個人でヒットコンテンツを出せる人も、やっぱりごく一部だし、彼らがヒットを続けることも難しい、というのが現状ではないでしょうか。

 ある時は、猫の動画が当たり、ある時は、素人アニメが当たり、またある時は、お笑い動画がウケる。けれども、それぞれはまったくの偶発的で、それぞれの作者が一時金銭的に潤っても、次はない、みたいな。




 となると、ヒット作は単発消費されるだけで、「当たるかどうか」「ウケルかどうか」は努力や継続とはまったく関係なくなる可能性もあります。


 これは、たとえばコブクロさんのように、「路上で実力をたくわえ」「大手に目をつけてもらい」「メジャーでもヒットを飛ばす」という一連の「成功への」流れみたいなものの崩壊を意味するように思うわけです。




 大手メジャーの利点は、やっぱりコンテンツ作成者が「育つ」「育てられる」ところであって、それが崩壊した今、「育つことも育てられることもなく、ほうりだされる」という事態が起こっています。


 そう、ほうりだされほっとかされたただの一般人たちが、うにょうにょとコンテンツの作成者を目指して活動し、それぞれが大量にコンテンツをほうりだしていて、それが編集者や大手メジャーによって評価され、洗練されることなく、一発当たれば消費されていく。


 それがいいか悪いか、という問題を提起したいのではなく、どうもしばらくは「カオス」な状況が続きそうだ、というわけです。

 もっと端的にいえば、クリエータは「世界中、みな一発屋になる」ということです。





 お笑い界もそうですが、一発屋の大量消費が今のメディアをとりまく実像だと思います。繰り返しますが、それを良いとか悪いとか、そういう基準でとらえようとしているのではありません。

 まあ、何かひとつ付け加えておきたいとすれば、「一発ではなく、継続的で積み上げられたコンテンツ」をどう醸成していくかは、これからの課題かもしれません。