相変わらずの遅筆ですが、ちょいと遅ればせながら、「創作をめぐる4つの事件」について書いておこうと思います。
クリエータ養成講座の<特別編>だと思って、少しお付き合いください。
ここ最近、創作をめぐる事件が立て続けに起きていて、世の中は面白いことになっています。
① 「明日、ママがいない」をめぐるメディアと表現の事件
② 「村上春樹」 中頓別町をめぐるフィクション上の「ポイ捨て」事件
③ 「佐村河内守」の「ゴーストライター」事件
④ 大人気ゲーム?!「Flappy Bird」中止事件
ざっと、おさらいしておくと、
「明日ママ」事件はテレビドラマの表現として、施設に預けられた子供達を「(赤ちゃん)ポスト」などと呼ばせる内容はどうか、ということ。
「村上ポイ捨て」事件は、世界の村上春樹が、小説の登場人物に「この町じゃポイ捨ては当たり前なのかな」的なことを思わせたら、実際の町人が怒り出したということ。
「佐村河内」事件は、ご存知耳の聞こえない作曲家とされた人物が別人に曲を書かせていたもの。
「flappybird」はスマホの人気アプリ作家が「もうやめた」と投げ出した事件。
です。
クリエータ、創作者のみなさんはそれぞれの立場で、いろんなことを思ったり感じたりなさったと思います。
たとえば、「野島脚本は濃いから、ちょっとやりすぎかな」とか「小説の中にまで文句言われちゃかなわねえな」とか「ゴーストはいかんよ、ゴーストは」とか、「人気ゲームで広告収入もあったのに、やめちゃうの?」とか。
まあ、善悪是非については、好きなように感想を述べ合うのがいいと思いますが、私自身は、少しだけ俯瞰的な見方をして、こんなことを考えています。
これらの4つの事件の背景に、あるひとつの事象が横たわってるなあ、ということです。
それは何か。平たく言えば「大衆なるもの」とでもいいましょうか。
①と②は、本質論で言えば似ています。それは「フィクションにおける表現において制限が加えられるべきか否か」という問題です。そして、その基準は誰が作るのか。
「フィクションなんだから全面的に自由だ」、とも言えるし、「フィクションであっても、公衆に不利益をもたらすものは自重すべきだ」とも言えます。
③は、「誰が、彼をもてはやしたのか」「誰が、彼に感動したのか」という問題をはらんでいます。
④は、「作者に『もういいわ』と思わせたのは、誰か」と言う点です。
すべては、大衆なるもの、のなせるわざです。
ここまでの表現はいけない。ここくらいならOK。の線引きは、大衆の漠然とした雰囲気が作ってゆきます。法律ではありません。
純粋な音楽性ではなく、物語性によってその作品が評価されるとすれば、そこには「大衆ウケ・大衆狙い」の何かがうずまきます。
そして、大衆に疲れたゲーム作者がゲームを終了に向かわせ、あるいはtwitterを終わらせるのです。
明確な法でもなく、あるいは多数決の票でもなく、なんとなくの、総数も判然としない「大衆の雰囲気」がこれからの世界を左右するとすれば、恐ろしいことでもありますね。
雰囲気で評価されることもあれば、雰囲気でこきおろされることもある。
私個人的には、あまり望ましくない社会が来ているのかもしれません。
この大衆性の時代の中で、より正確でよりきちんとした評価を生み出すには、実は評価する大衆の「レベル」が高いかどうかが問題になると思います。
大衆の芸術的レベルが高ければ、評価される芸術の一定レベルは保たれるでしょうし、大衆の「政治レベル」が高ければ、安易な政策にはなびかず公正な判断がなされるでしょう。
大衆の経済的レベルが高ければ、大衆の評価と金銭的価値が公正に結びつくでしょう。
そんなことを、少し考えながら、自身の創作のあり方を見つめてみるのもよいかもしれません。