2017年8月2日水曜日

作家という商売は、いずれ無くなるもしくは希少種になるかもしれない話。




 どうも。いろんなジャンルで何者かになってしまった挙句、結果として何者かよくわからん松尾バイトです。


 この名義では、主に創作とか、ブンガクとか、あるいはゲージツとか、そういうものについて書いたり考察したりしてきたわけですが、先日ちょっとしたショックな出来事がありました。



 ネットのトップページを流し読みしていると、いろいろな記事がだらだらと列挙してあるわけですが、その中の一つの随想めいたものを開いて読んでいたのです。


 その記事は、記事というよりはエッセイというか、ちょっとした随筆というか、ある意味砕けていて、それでいてほんのちょっとウイットに富んだ「どちらかといえばブンガクに寄った」文章だったのですが、その記事に対してのコメント欄に


「何が言いたいのかよくわからん」

とか

「文章が支離滅裂でわかりにくい」

とか、


それはもう、批判的コメントが大半だったのですね。



 ワタクシ松尾バイトは、いちおう文学部出身なので、その記事主の言いたいこともわかるし、たしかに多少ゲージツ側面に傾いた文章だな、と思ったことは認めますが、少なくとも批判する気持ちは毛頭無く


「まあ、面白い文章だな」


と思って読んだわけです。



 さて、その書いた本人の名前を見てびっくり!その記事の正体は80年代くらいに「お洒落で比較的かっこいい文章を書くとされた大御所作家先生」の随想文で、それをネットメディアがどこかの媒体から引っ張ってきた文章だったわけです。



 私はその作家先生の大ファンとかではなかったので、文章だけで作家を当てることはできなかったのですが、まあ40代から50代の文学ファンなら


「ああ、あの先生ならこんな感じで書くな(笑)」


と思わず微笑んでしまうような、そういう作家さんだったわけですね。





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 そういう、我々40オーバーの文学人間にとっては「面白い文章書くよね、さすがあの先生だ」と思う記事が、現代の大半のおそらくは若者にとっては


「何が書いてあるかわからん」


という文章に相当するのだとすれば、 これは文学の終焉を意味するでしょう。




 ちょうど、トランプ大統領の演説が、「中学生英語しか出てこない」と言われたのとおなじで、現代のネットメディアに載る文章はおそらく



「平易でわかりやすい文章」

「逆説などのない、ストレートな論法」

「行間を読んだり、情緒を味わうような手法を用いないこと」


といった、ほんとうに中学生でもわかりやすい文章が求められている、ということなのです。





 となると、これは「作家」という商売は、遅かれ早かれ消える、もしくは希少な存在になる、ということなのだと思います。


 ライトノベル作家は次々求められるかもしれませんが、大衆文学や純文学は、求められない世界がくるのかもしれません。



 ちょうど映像の世界で、「映画→テレビ」への変化が起き、そこから「youtube」へと大衆映像の世界が変化したように



プロの文章家の必要性が薄れて、ウェブライターなどの半素人文章家の作品が溢れる世界



がやってくるのだと思います。




 松尾バイトとしては、文学を書き続けているわけではないので、偉そうなことはまったく言えないのですが、文学部出身としては寂しいものがあります。


 でもまあ、それならそれで、「書く」という行為を自分なりに咀嚼していかなくちゃならんのだろうなあ、と思う今日この頃。