2011年12月14日水曜日

猫と会話できるようになってきた説



こんばんは 寝る前にこれだけ書こうと目をこすっている松尾です。

うちには猫が二匹いるのですが、最近何を言っているのかわかるようになってきました。

部屋飼いで外には出さないのですが、夜中とか好き勝手に動き回らないように、リビングにケージが置いてあるので、夜は彼らはそこで寝ることになっています。

で、だいたい寝る頃になると、にゃーと鳴きます。「寝るからおやつよこせ」ですね。

「はいはい、おやつだね」と、ちくわを小さく切ったやつをちょっとだけあげます。当然のように喜んでケージの中に入っていきます。

しばらくほったらかしにしていると、勝手にちくわを食べているのですが、またにゃーと鳴きます。

これは「おかわりよこせ」ではなくて、「おやつ食べ終わったから、おふとんもってきて!」です(笑)

なので、おかわりなんかあげなくても、ペット座布団みたいなやつと毛布をケージにいれてあげると、喜んでモフモフします。

で、そのままそこに寝そべって寝に入るわけです。


朝になると、朝ごはんにしたり、うろうろさせたりしていると、メスのほうが一匹だけにゃーと鳴きます。

「おふとんしまって!」

です。これを無視すると、しばらくにゃーにゃー鳴いていますが、そのうち勝手に毛布をくわえて引っ張り出して勝手に片付けようとします。

なので「はいはい、ごめんね、しまうからありがとう!」と私が毛布と座布団をしまうハメになります。


↑だいたいこれは毎日の作業なので、本人たちもよくわかっているようです(笑)

あとは、おもちゃをこっちへくわえてもってきて、目の前でぽとっと落としたあげく、にゃーと鳴きます。

「おもちゃ投げて!」

ですので、放り投げてやると、嬉しそうに取りにいって、またくわえてもってきてぽとりと落とします。

また投げます。嬉しそうに取りにいきます・・・・、犬か!!!

2011年12月9日金曜日

幸せになるのは簡単。 (つづき)




こんばんは 幸せは忘れたことにやってくる松尾バイトです。

昨日幸せについてあれこれ考えたので、その続きを。






一気に難しくなりますが、「幸せ」の本質は「個人善と社会善が合致すること」だとも思っている私です。

(昨日はわかりやすかったのに、今日はわかりにくいね)




個人善というのは、平たく言えば、「自分がこうなったらいいなと思う状態」かな。個人的なレベルで「これが良い状態、善い状態」だと思う状況のことです。

社会善はこんどは自分じゃなくて「自分を取り巻く環境・社会が良い・善いとする状態」のことです。

ちなみに、個人善とか社会善って、ここだけの用語ということで!





さあ、たとえ話します。


赤ちゃんがお腹が空いています。赤ちゃんにとって個人善は「おなかがいっぱいになっている状態」ですね。それが「良い状態」です。

だからそれを目指してアクションを起こします。つまり泣きます。



そうするとお母さんがおっぱいをくれるので、環境(社会)であるお母さんのほうも「おっぱいをあげること」が良いことだから二人の気持ちは合致します。

赤ちゃんの「個人善」も、お母さんの「社会善」もおなじ方向へ向いているので、赤ちゃんは幸せです。



このとき、個人善を実現するために、赤ちゃんは泣くというアクションをします。そして、結果として社会善が実現します。

個人善を希望する → 実現のためにアクションを起こす → 社会善が実行される →それが個人善と一致する → 幸せの実現
という流れですね。


このとき、アクションは一般的な感覚で見て「いいことであっても、わるいことでも、心地よいことであっても、不快なことでも、ぜんぜんかまわない」という事実があります。



ここ大事。



赤ちゃんにとって、泣くことは自分も回りも「不快」なことです。本人も苦しそうだし、周りから聞いていても心地よい音ではありません。


だから、幸せを実現するために「苦しい・いやなアクション」があってもかまわないということです。

もちろん、心地よいアクションをしてもいいです。赤ちゃんが笑えば周囲はかまってくれます。赤ちゃんも嬉しいし、周りも嬉しいですよね。「幸せ」を手に入れるアクションは、心地よいことでもいやなことでも、どっちゃでもええのです。





____





さて、「個人善」の実現をしようとアクションをしても、「社会善」がそれと一致しなければ不幸が起こります。

赤ちゃんはおむつが汚れているから換えてほしいのに、おかあさんが「おっぱいをあげるのが良いことだわ」と思っていると、どちらも幸せを望んでいるのに、いつまでたっても赤ちゃんは泣きやみません。



個人善と社会善が一致しない、どちらも「よい状態になりたい」と思っているのにかなわない不幸がこうして起こります。




なぜ、この話で「社会善」というまったく外部の要因を挙げたかというと、人が幸せになりたいと思ったとき、この「社会善」というのは相手の考えること、あるいは社会や環境が考えることなので、

コントロールできないこと

であることに気付くためです。




人が自分でコントロールできるのは

①「個人善」そのものの定義




②「その実現のためのアクションの方法」

だけであって、

③「社会善」は自分ではコントロール不可能


であることが大事なのです。




つまり、人が自分の力で幸せになるには

「個人善」をどこに設定するか、と「アクション」をどうとるか、の二つの方法しかないということです。

「社会・周囲がこうあってくれたらいいのに」とか「相手にこうしてほしい」という考えは、最初から無駄なのです。

だからいろんな宗教とか、自己啓発セミナーとかでは「あなたが変われば周囲が変わる」みたいな言い方をするわけですね(笑)

そこについては、ある意味正しいわけです。





さて、個人善がでかい人は、欲望がでかい人ですから、てっとり早く幸せになるには、個人善のレベルを下げたらいいということになります。

要求度合いを下げるんですね、「こうあったらいいな」という状態を減らすということです。



これの究極が仏教(^^;

「煩悩を捨てなさい」というのは、「個人善」をゼロにしたらいいんじゃない?ということです。

周りがなにも実現してくれなくても、そもそも個人善の要求が低い(っていうか悟りを開いたらゼロだし)ので、幸せになりやすい(笑)




ちなみにキリスト教のほうは、すべて捨てろというよりかは、アクションを変えなさい、に近いような気がします。



右ほほをぶたれたら左も出しなさい(アクション)
相手がしてほしいと思うことをしてあげなさい(アクション)
あなたの隣人を愛しなさい(社会善に自分を合わせなさい)(アクション)



ほら、おおまかには宗教も「個人善」と「アクション」のコントロールで幸せをつかむテクニックなんだということがわかりますよね?


長くなりそうなので、つづきはまた。

2011年12月8日木曜日

幸せについて




こんばんは 今日はなんだか寒いので暖房の効いた部屋でいろいろまったりしようとしている松尾です。



先日から、いろいろ「幸せ」について考えています(笑)なんだそりゃ。




特に今の私が不幸なわけでもないのですが、どこかの外国の王様がやってきて幸福度について注目されたりしたからか、「幸せ」とはなんぞや、ということにちょびっと気が向いたのかもしれません。

最近アランの「幸福論」なんかが書店で平積みされたりしてたのを見ましたが、人類の普遍的なテーマだろうと思います。

私の「幸せ」論は簡単。

人は、「なにかを渇望して、それがかなえられると幸せ」で、「かなえられている状態から奪われると不幸せ」だと思います。


「あれがほしいなあ」とか「こうなりたいなあ」が実現すると、それが物質的であれ精神的であれ、かなうと「幸せ」だと思います。




そして、その逆に「いますでに持っているもの、すでにある状態」がなくなると「不幸せ」だと思うのではないかな。


家が欲しいなあ!と思って、いよいよ家が買えたら幸せ。
就職したいと思って、仕事につけたら幸せ。
お腹が空いていて、おいしいものが食べられたら幸せ。
ほしかった恋人ができたら、幸せ。

地震や家事や災害などで自宅を奪われたら不幸せ。
仕事がなくなったら不幸せ。
食べるものがなくなったら不幸せ。
別れたら不幸せ。


・・・こうやってまとめると、人は意外に単純なのかもしれません。





ポイントなのは、「渇望していないのに、与えられても幸せだとは感じない」というところです。

「ほしい」という気持ちと「やった!手に入れた」という気持ちが合体するところがポイント。

だから地デジテレビが29,800円になっても幸せとは感じない。渇望していないものが、そこにごろごろあるだけだから。

それより、「家に白黒テレビがやってきた!力道山を見るんだ!」というときの渇望と入手の喜びは、いくらテレビが月収の何倍であっても「幸せ」だったのだと思うわけです。

もう私たちは牛丼がいくら安くなっても幸せではないのかもしれません。

それより、「もうマグロが食べられないらしいよ」とか、当たり前だったものが奪われた時に、なんともいえない不安感に襲われるわけです。




____





そんなこんなで。

愛されたいと渇望している人は、自分を愛してくれる人が現れたら幸せだと思います。

そうでない人にいくら愛してくれる人が現れても、キモイだけかもしれません(苦笑)



「わたしは不幸だ」
とつねに思っている人は、ずっと渇望がかなえられていないのでしょう。いや、かなえられていても、それをきちんと認識していなかったり、気付いていなかったり、さらになにかを渇望しているのでしょう。




幸せになるのは、実は簡単なことです。次回、そのへんの続きを書こうかな。

2011年12月7日水曜日

本作りをしようと思ったけど・・・。

こんばんは 猫を寝かしつけて自室に上がってきた松尾です。



今日は、本業の仕事が終わって帰ってきたら本作りをしようと意気込んでいたのですが、まったく別件で作っているzineというか小冊子というか印刷物というか、の注文が入っていたのでそちらを作るのを優先していました。



あ、結局本作りしてたことにはかわりないのか、と(笑)



zineということばを知って、大阪中崎町のDANTALIONさんでいろいろ教えてもらったりして、それらしいものをちまちま作るようになったのは、まだ今年になってからなのですが、実はDANTALIONさんへいく前から、自分で本づくりやら冊子づくりは既にやってたのです。



ところが、ちょっとだけ方向性が違うというか、切り口が違っていたのは、zineということばに出会ってからは「ああ、紙の媒体、本の媒体ってやっぱり存在感が、質感があるよね」という再発見があったことでしょうか。



というのも、今日注文があったりしたブツは、冊子という「入れ物」の形態をしているだけで、大事なのは中身なので、べつに入れ物はなんでも良かったりします。だから普通はPDFの電子書籍の形で頒布しているので、それがほしい人は別にPDFでも紙媒体でもどっちでもいいのです。



即日メールでほしい人は電子版を、機器の関係で印刷物のほうがいい人は冊子版を、というわけですね。

究極的には、情報さえ入っていればCDRで渡してもいいわけで、ある意味それは「情報とは」というものの本質に近いかもしれません。



でも、zineになると、やっぱり入れ物・フォーマット・紙の質感ぜんぶひっくるめて存在感があるような気がします。だから、あらためて「これは面白い!」と思ったのかもしれません。

というわけで、はやく本づくりがしたいなあ(^^ あしたまでおあずけです。

2011年12月6日火曜日

見合い結婚と恋愛結婚はどちらがいいのか。



こんばんは そはかとない松尾バイトです。

NHKの「コロンビア白熱教室」で、面白い話をやっていたので、考え事メモ。

コロンビア白熱教室
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/columbia/111204.html

今回の放送分では、結婚の話が出ていました。




親が決めた結婚を強いられている国の人たちの結婚観と幸せについて



恋愛結婚をしている人たちの結婚観と幸せについて




を比較するような内容で、特に興味をひきつけられるのは

「結婚して10年経つと、親が決めた結婚をしている人たちの幸福度のほうが、恋愛結婚をしている人たちの幸福度より高い」


という調査結果があることでした。



番組では、親が決めた結婚をしているのはインドで、恋愛結婚はアメリカ、という視点で議論がなされていたけれど、実は日本でも


昔は親が決めたりお見合い結婚がほとんどだったけど、いまは恋愛結婚がほとんど


という流れがあります。これってなんか共通項があるように思いますね。



まあ、どっちが幸せなのかについては、恋愛結婚というのは「自分が自分の希望や理想を選択し、実現しようとする結婚」なので、ぶっちゃけ選んだ相手が理想どおりなわけないので、

「永遠に『この人じゃなかったかも』と考える余地のある結婚」

なのではないかと思います(笑)その分だけ、幸せ度合いは低いわな(^^;;




それに対して定められた結婚は、「この人じゃなかったかも」もクソもなく、与えられた環境の中で、「まあいいか」か「ああ、だめだ」のどちらかしかないので、よほど嫌いじゃなかったらこんなもんかな、と思うのかもしれません。

ただ、私が思う面白いところは、番組から離れてちょっと違うところで、

①むかしは親が決めた結婚。押し付けられたお見合い。

②それから恋愛結婚バンザイの時代がやってきて

③でも、離婚がやたら増えたり、シングルマザーになったり、再婚相手が子供を殴ったり、どうも恋愛が万能の幸せではないらしいとバレてきた。

④そこで、結婚相談所とか婚活とか、「自分でない誰かに選択肢を求める結婚」が生まれてきた。


という流れを見ていて、だったら、「あなたとはなんの関わりもない相談所の人とか、婚活プロフィールのデータを頼るんじゃなくて、最初からあなたのこともよくわかっているおとんとおかんを頼ったらいいのに」と(笑)




つまり、あんだけ嫌っていたお見合いとか親が決めた相手って、実は合理的だったんじゃん、と思うのです。

自分が幸せだと思った選択なんて、結果として幸せかどうかわからんよね。そんなもんです。

2011年12月5日月曜日

Zine部に参加することになりました。



こんばんは 仕事から帰ってきて一息ついている松尾です(^^

どったんばったん暴れまわっていた猫たちを、「もう寝にゃさい」とケージに押し込んで書き込み中。




さて、ものづくりが好きなので、zine部なるものに参加することになりました。

zine部
http://zineclub.web.fc2.com/

zineというのは、手作りの本とか雑誌とか、そういうチープな香りのする手作りマガジンみたいなものです。

それを創ったり、zineにまつわる交流をしようという部なので、zine部。

まだ生まれたてなので、本格的な活動はこれからです(^^





http://zineclub.jugem.jp/?eid=12

↑zine部における、松尾バイトの自己紹介。

これまでいろいろやってたので、またぼちぼちこのブログでも成果を紹介します。



_______




さて、せっかくなのでzineについての僕の思いを。

実は高校時代に、自分で小説を書いて、ワープロ専用機で打ち込んで感熱紙に印刷して、それを工務店をしていた友達の家にあったコピー機を借りて複製印刷して、それからハードカバー製本してちゃんと本にして、友達に売りまくったのを思い出します(笑)

あれが、僕にとってのzineでした。ごめんなわが友人達よ、あんなものに数百円も払わせて。

社会人になってからも、手作りの俳句集をこんどは配布したりしたなあ。


懐かしい思い出が、いまは再びリアルな活動になりつつあります(^^

2011年12月4日日曜日

ライダーと戦隊が初競演!?

どうもお世話になります 松尾です。



最初のブログ記事がこれ、というのもどうかな~(^^;と思ったのですが、私に関係ない話ではないのでつい選択しました。

ライダーと戦隊ものが初共演 ヒーロー240人大集結
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111204-00000022-spnannex-ent

来年公開の映画で、なななんとあの仮面ライダーと戦隊ヒーローが共演するらしいです(笑)




歴代ヒーロー240人って、多すぎるやろ!




仮面ライダー(初代)とゴレンジャーからはじまって、全部出したい!という企画らしいので、おっさんから幼児まで楽しめる映画になればいいですね。

しかし、キレのある「ヒーローの動き」ができるスーツアクターを240人集めるだけでも大変!ということなので、すこし笑ってしまいます。
遊園地とかのイベントで戦っているヒーロー(中の人)も、映画デビューのチャンスですな(^^




で、なんでまたこのネタを私がチョイスしたかというと・・・。



その理由は私が最近参加している短歌雑誌(zine)「うたつかい」の次号12月号を見てもらえばわかります(笑)

うたつかい
http://www.utatsukai.com/


イメージ 1

→ちなみにワタクシ松尾は、今月号(11月号)にも参加しております。あんまりやる気のない?!ゆるーい感じで(笑)
堅苦しくない短歌をめざしております。



うたつかいさんのHPからも購入可能ですので、なんといっても100円ですので、ぜひ一度お求めくださいませ。

2011年12月3日土曜日

自己紹介など



このブログを書いている人  松尾バイト(Byte Matsuo)



<プロフィール>

書き物で食べているわけでは全くありませんが、いろいろ読んだり書いたりしています。

俳句を作ったり、文章を書いたりします。

思ったことをつい書き込んだりもします(^^;

ツイッターあります。 http://twitter.com/#!/byte_matsuo 松尾バイト