2018年1月19日金曜日
「なろう系」ラノベは、創作界の読むレッドブル?
この間から、ずっとラノベやら文学やら、あるいは創作について考えていて、
1) ストーリー不要の時代を読んで(創作はどこへいく?!)
https://arekore-doresore.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html
2) 文学とラノベの境界線がわかった!
https://arekore-doresore.blogspot.jp/2018/01/blog-post_17.html
とくに2番めの論考なんかでは、
なろう系小説と多幸感
についても考えてみたところである。
すると、興味深いことにちょうどタイムリーに、「なろう系小説とはいかなるものか」について、瞬間で理解できる良記事を挙げておられる方がいた。わーい。
それがこれ。・・・・・・どん!
ここ数年のなろう小説の名文をピックアップする(ワイワイちゃんさんの記事より)
http://subnacchi.hatenablog.com/entry/2018/01/18/225832
一読して、かなり笑った。ワイワイちゃんさんの応援しているのか馬鹿にしているのか微妙になってしまう結果論的感じな文章も面白かったし、元ネタも当然面白かった。
そうかあ!こんなことになってるのかああ。
しかし、この記事主さんがおっしゃっていることはまさに的を射ていて、
「一番大事なのは、読んでいて不安にならないこと」
なのである。これぞなろう系ラノベの究極目的(笑)そうであれば、すべてが理解できる。
私の記事ではこれを「多幸感」と表現したのだけれど、やっぱり読者の要求しているものはソコだったのね。
しかし、これらのなろう系小説の「隠された危険性」についても、同時に記事主さん自身が書いておられるので、そこにも注目しておきたい。
それは
「読み進めるたびに、自分が感情移入している主人公が褒められるので、どんどん自己肯定感がアップする」
という効果!である。
これによって精神的充足感が得られるというのだけれど、
あかんあかん!それはあかん!
とつい関西人の松尾はツッコんでしまいそうにもなる。
だって、
自己肯定感はアップするけれど、自分の中身は「なんにも」アップしてない
のだもの!!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
たしかに、現代人が置かれたこのセカイでの身の上は、疲労困憊で過酷に満ちているのだけれど、それを吹き飛ばして全能感を得るだけのツールというのは、どこかに
ヤバさ
を隠しているような気もする。
一見、元気にさせてくれるのだけれど、実は根源的な疲労を回復してくれる治療薬ではないエナジードリンクのような効果は、確かになろう系ラノベにあるのかもしれない。
これは、まさに読むレッドブル!
しかし、レッドブルの効果は、カフェインによるもので、カフェインだって摂り過ぎたら死ぬわけですから、
「多幸感の摂取しすぎ、全能感の摂取し過ぎには注意しましょう。あなたの健康をそこなう恐れがあります」
という注意点も、必要なのではありますまいか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それはともかく、記事主、ワイワイちゃんさんの解説はおみごと(笑)
後半はかなり笑えます。
・・・・・・え?笑ってはいけないの?
2018年1月17日水曜日
文学とラノベの境界線がわかった! ~中学になったらラノベを読んではいけないのか~
ちょうど1年ほど前に、ある方のツイートで
「中学になったらラノベなんか読むな」
という話が、賛否両論盛り上がったことがあった。
https://news.careerconnection.jp/?p=30733
(元ネタ キャリコネニュースより)
その時は、ニュースをみても別段ああだこうだ思ったことはなかったのだが、昨日も創作にまつわるあれこれを書いているうちに、ふと思ったことがある。
ああ、結局のところ、「文学」と「ラノベ」の差、違い、境界線とはココなのではないか!ということだ。
近年のラノベ、特に「なろう系」のラノベのパターンは、
「主人公は、異世界で力も女性も思いのままのチート能力を持ったものに生まれ変わって活躍する」
というものであるという。
チート、という言葉は、本来は「ズル」や「不正」を意味するように、
現実世界ではありえないくらい全てを手にしちゃう主人公がウハウハ
なのがウケるというのである。
こうなる側面はわからんでもない。現実社会でも、実際の労働とは無関係のところで、
「ビットコインで億り人でウハウハだ!」
という話がウケているし、自分もそうなりたい!と願う人がわんさかいる。まるでラノベである。
また、その昔、ある女の子に小説を書いてほしいと頼まれた際にも、
「現実では望むべくもないけれど、物語の世界では幸せにあの人と結ばれる話にしてください」
と言われたことがあった。 なるほど、それを突き詰めれば、読んで多幸感を得られるのは、異世界成功小説ということになるのはある程度いたし方ないだろう、とも思う。
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しかし、それではなぜ、中学生はラノベを読んではいけないのだろうか。もちろん、最初の元ネタの人だって、「ラノベ」をひとくくりにしてダメだしをしているわけではない。
その問題提起は、ちょうどこの↑直前に出てきていて、つまりは
「中学生になったら、多幸感だけを得られる物語を読むのは危険なのではないか」
という意味合いなのである。
近年の「なろう系」ラノベの特徴は、徹底した「多幸感」の追及であり、そこに「挫折や停滞」の要素があると、瞬時に読者から批判が飛んでくるという。
もちろん、個人的にはこのことそのものを問題視してはいない。だって、小説を書いてほしいと願った女の子に書き上げた物語に、好いた異性との「挫折」「停滞」シーンがあって、それがリアルな傷口を広げるハメになるのであれば、あえてそれを入れないということは、別におかしなことではないからである。
だいたい、「暴れん坊将軍」やら「遠山の金さん」は、挫折もしないし苦悩もしない。周囲のものはえらくひどい目に合うことはあるが、主人公たちはアメコミヒーローも含めて常に最強なのである。そういう作品が世にあることそのものは、けして間違いとは言えないわけだ。 徹底した正義の追及だってかまわないのだ。
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こうしたことから、単なるラノベ批判は別にして、いわゆる「文学・ブンガク」らしきものと、なろう系寄りの「ラノベ」にはどこに違いがあるのか、ということが浮き彫りになってくる。
まとめると、
「人生における挫折・停滞・苦悩・ネガティブ体験を含む苦痛」
と
「人生における挫折・停滞・苦悩・ネガティブ体験を含まない成功」
の差異である。
ざくざくざっくり言えば、
「挫折と苦悩を読書によって追体験できるのが文学」
であり、
「成功と多幸感を読書によって追体験するのがラノベ」
なのかもしれない。
もう少し高度な分類をすると以下のようになる。
■1類 読者が体験できる(追体験が容易な)成功譚
→ 一般小説 若者向けならばジュブナイルや青春小説と呼ばれるもの
■2類 読者が体験できない(追体験が困難な)挫折譚
→ SFやハードボイルドなど
■3類 読者が体験できる(追体験が容易な)挫折譚
→ 文学 と呼ばれるもの あるいは純文学
■4類 読者が体験できない(追体験が困難な)成功譚
→ ラノベ あるいはマンガチックだと言われるもの
もちろん、成功譚と挫折譚を物語の結末だけで判断するのも難しいし、ラノベに挫折が出てきたらラノベでないのか、とかそういうややこしい話にはするつもりはないのだが、ざくざくっとイメージを捉えれば上のようになるだろう。
ハリーポッターなどのファンタジーは、魔法が登場する時点で追体験不可能な話であり、ポッターの挫折と成長は、最後は成功を収めるものの、途中がけっこうしんどいので2類でカテゴライズできる。
そういう意味では、中東のテロリストと戦う傭兵の話なんかは、日本人の普通の人間にとっては2類だが、イギリスの軍人にとっては追体験できるので一般小説であり、ファンタジーではない。
しかし、イギリスの軍人が傭兵となってテロリストと戦い、苦悩のうちに死んでいく回想録は、ヨーロッパではおそらく「文学」であると受け止められるだろう。映画で言えば、プラトーンの世界だ。
夏目漱石がなぜ文学なのかと言えば、明治時代で文明開化してすぐなのに、「日本人として生きる上での悩み」を描いたから「こころ」や「それから」は文学なのである。逆に「坊ちゃん」がなぜ文学でないのかは、挫折文学ではなく、むしろ成長文学・成功文学なので1類なのだ。
ヤミ金ウシジマくんは、マンガではあるものの、「体験できるがおなじ体験はしたくない」というギリギリラインを攻めているので、半ば文学であり、半ば通俗小説である。でもまあ、個人的には、文学的要素が詰まっていると思う。
体験できるかどうかが重要なのは、読者と物語の間に「共感性」が生まれるかどうかと関わるからである。
小説とは、個人の体験や考えを万人のものとする
ための技術やメディアであるから、共感されるかどうかは、大きなツボとなるのは自明であろう。
そして最後のラノベ。異世界や起こりえない世界の上で起こることや、たとえ実際の世界が舞台でも追体験しにくい出来事で構成されて、なおかつ成功譚であることは、ラノベである。
たとえば挫折しないワンピースとか、敵が弱すぎるドラゴンボールだったりすれば、もはやそれらはラノベであると断言してもよいのだ(笑)
「君の名は」がラノベ臭を漂わせているのは「あまり挫折しなくて、かつあり得ない話」だからである。
「エヴァンゲリオン」は「体験不能な挫折譚」なので、文学まで昇華されずSFで持ちこたえている(笑)
「涼宮ハルヒの憂鬱」は、宇宙人や未来人と逢えない点で「体験不能」であり、実はキョンくんはほとんど挫折も成長もしていないので、やはり「ラノベ」である。
ちなみにカフカの「変身」は人が意味なく虫になってしまうという「体験不能な世界であり、かつ挫折譚である」から文学ではなくSFである(笑)
え?きめつけ??(^^;;
しかし、人間には「体験しえないものを空想する力」というものがあるので、
「ある日キモイ虫に生まれ変わっていた」というカフカの変身を
「ある日、キモイ生き物のごとき引きこもりになった」とか
「ある日、ばい菌のような存在に生まれ変わった」とか
「ある日、ゴキブリ野郎もしくはヒキニートになっていた」とか
そういうある種のたとえのように受け止めること(つまり共感)ができれば、これは文学に変容するのかもしれない。
なので、「逃げちゃだめな少年」という設定において共感したり、「父と子と軋轢」という関係性において共感できる人間にとっては、エヴァは文学足りうるということになるのだろう。
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というわけで芥川賞を狙うなら、市井の人がぐっといろいろ苦しむ話をかけばいいらしぞ。ぐはははは。
そして、直木賞なら、市井の人がいろいろ頑張る話をかけばばっちりだそうだ。ぬはははは。
"Important updates to the YouTube Partner Program" というメールが届いたら。 ~youtubeパートナープログラム変更だってよ!~
2018年の2月からyoutubeのパートナープログラムの規約が変わり、新規にポッと出のユーチューバーには成りにくい仕様へと変更されるようだ。
というわけで、現在は小額でもパートナープログラムが生きているチャンネルの持ち主さんにも、新しいルールが適用されるよ、というメールが届き始めている。
YouTubeパートナープログラムの概要
https://support.google.com/youtube/answer/72851?hl=ja
というところで詳細が載っているが、さらに詳しいことはリンク先を見るように指示される。
で、そのリンク先は英語なので、読みづらい(苦笑)
また、変更の該当者にも、
Important updates to the YouTube Partner Program
という表題のメールが届くようになっている。これも内容は英語だけれど、ポイントは簡単なのでしっかり押さえておこう。
ポイントは2つ。
過去12ヶ月の再生時間数が4000時間を超えていること
チャンネル登録者が1000人を超えていること
これだけ。しかし、これを満たしていないと動画の収益ができなくなり、かつ参加停止になってから30日経たないと再度申し込みができなくなる。
認定されるには1ヶ月の猶予があるが、それだけの期間ですぐに登録者1000人超えとか4000時間再生は難しいので、
時間をかけてチャンネルを育ててゆくしかない
と思われる。youtuberになるためのスタートが、楽ではなくなったということかな。
ちなみに2017年4月から、総再生1万回未満のチャンネルにも広告が表示されていないので、これもひとつのしばりとなっている。
ラベル:
youtube,
パートナープログラム
2018年1月16日火曜日
ストーリー不要の時代 を読んで (創作はどこへいく?!)
近年、創作界隈やら、クリエーター界隈がどうもおかしい、という話はよく聞いているし、自分でもなんとなくは実感していたのだが、とあるはてなの匿名記事で、このへんの
「もやもや」
をまとめてくれているものがあったので、紹介しておく。
ストーリー不要の時代
https://anond.hatelabo.jp/20180116071707
この記事主は、おそらくはプロのライターさんで自称ではあるが、ある程度の実績がある方だと思われる。私なんかは、最初から最後まで「なんちゃって」の領域を出ないが、それでもこの名前以外では、いちおう書き物まがいのことやものづくりまがいのことはしているし、
「気持ちは創作家」
でありたい!という気概は忘れていないつもりである。
記事の内容は、簡単である。
物語性が無くなってしまった、それだけ。
小説にしてもゲームにしても、「ストーリー性」なるものが失われて、どちらかというとその場その場で短く、簡単で、瞬間的に楽しい創作物が消費されている、といことである。
記事の中では、たとえば、アニメでは「ポプテピピック」が触れられていたが、復活した「おそ松さん」なんかも同系統であろう。
ゲームでは「白猫」や「モンスト」「つむつむ」なんかも、基本は一回戦の果てしない繰り返しである。古い話でごめんねだが、「トルネコの大冒険」やら「風来のシレン」じゃないんだから、一回生成の無限ダンジョンみたいなゲーム、ということでもある。
ラノベとなろう系小説で言えば、もっとものすごいことになっているらしい。まあ、このあたりは、いちおう作家になりたかった症候群のおっさんとしては、語れば語るほどがっくり膝をつかねばならんので、黙っておくことにするが。
ところが、こうした事態を最初のうちは理解できなかったのだけれど、あるとき
「韓国ではすでにKポップは消費して垂れ流すもので、CDを買ったりするものではない」
という事情をなにかで読んで、なるほどと得心したものである。
日本人は、まだまだギリギリ、CDを買いたい年代が存在するが、韓国ではすでに、つぎからつぎへと新しく出てくる楽曲を、その瞬間ごとに楽しむものになっているそうだ。
日本では相変わらず、春になれば「桜」やら「3月9日」やら、夏になれば「TUBE」や「サザン」やら、スキー場では「広瀬香美」が恋しくなるというのに、である。
たしかに、ここ数年、日本でもヒット曲がまったく出ていない。オリコンのランキングではそれなりに上位の楽曲も書いてはあるが、それらをほとんど聴くことがないのは、どういうことなのか。
いやはや、日本も、楽曲消費社会へと以降しつつあるようだ。
さて、この記事主さんが、嗚咽するようなニュースが、入ってきたばかりである。
セカイノオワリのさおりさんの小説が、直木賞にノミネートされたというではないか。
いや、いいのよ。彼女の作品がおそらく良いものであろうことはそれはそれでいいの。
でも、文学界の潮流も、「やはり売れるもの、売れる要素を持つもの」へとシフトしていることは、こりゃもう誰もが気づいてしまったわけで。
ネタ元も、ましてや受け手もそれでいい、と思って創作物が流通するんだったら、もはやこれは抗えないことなんだろうなあ、と一介のおっさんは思うわけで。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ちなみに記事主さんもちょっと言及しているけれど、私はすでに「儲からないけど、個人個人が喜んでもらえるための創作物」へと作るものをシフトしている。
成果物は正直に言って1000円から5000円くらい。それを個人個人にカスタマイズして、文章やらモノやらでお届けする仕事をやりはじめているのである。
金額が低いから儲からない。でも、考え方を変えて、1部1000円で、1万部の印税10%の金額が、100万円なのだとしたら。1000円印税100%なら、 1000部売ればいいわけ。
それでも思うのは、きっと
「やりがいがあるのと食べていくことは違う」
とか
「好きなことを望むようにできる時代は終わった」
のだろうなあ、ということ。
あ、今テレビ局のディレクターさんから電話かかってきたので、新たな創作ネタに入ります。
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