2018年1月16日火曜日

ストーリー不要の時代 を読んで (創作はどこへいく?!)



 近年、創作界隈やら、クリエーター界隈がどうもおかしい、という話はよく聞いているし、自分でもなんとなくは実感していたのだが、とあるはてなの匿名記事で、このへんの


「もやもや」


をまとめてくれているものがあったので、紹介しておく。



 ストーリー不要の時代
 https://anond.hatelabo.jp/20180116071707



 この記事主は、おそらくはプロのライターさんで自称ではあるが、ある程度の実績がある方だと思われる。私なんかは、最初から最後まで「なんちゃって」の領域を出ないが、それでもこの名前以外では、いちおう書き物まがいのことやものづくりまがいのことはしているし、


「気持ちは創作家」


でありたい!という気概は忘れていないつもりである。



 記事の内容は、簡単である。


 物語性が無くなってしまった、それだけ。



 小説にしてもゲームにしても、「ストーリー性」なるものが失われて、どちらかというとその場その場で短く、簡単で、瞬間的に楽しい創作物が消費されている、といことである。


 記事の中では、たとえば、アニメでは「ポプテピピック」が触れられていたが、復活した「おそ松さん」なんかも同系統であろう。

 ゲームでは「白猫」や「モンスト」「つむつむ」なんかも、基本は一回戦の果てしない繰り返しである。古い話でごめんねだが、「トルネコの大冒険」やら「風来のシレン」じゃないんだから、一回生成の無限ダンジョンみたいなゲーム、ということでもある。


 ラノベとなろう系小説で言えば、もっとものすごいことになっているらしい。まあ、このあたりは、いちおう作家になりたかった症候群のおっさんとしては、語れば語るほどがっくり膝をつかねばならんので、黙っておくことにするが。



 ところが、こうした事態を最初のうちは理解できなかったのだけれど、あるとき


「韓国ではすでにKポップは消費して垂れ流すもので、CDを買ったりするものではない


という事情をなにかで読んで、なるほどと得心したものである。


 日本人は、まだまだギリギリ、CDを買いたい年代が存在するが、韓国ではすでに、つぎからつぎへと新しく出てくる楽曲を、その瞬間ごとに楽しむものになっているそうだ。


 日本では相変わらず、春になれば「桜」やら「3月9日」やら、夏になれば「TUBE」や「サザン」やら、スキー場では「広瀬香美」が恋しくなるというのに、である。


  たしかに、ここ数年、日本でもヒット曲がまったく出ていない。オリコンのランキングではそれなりに上位の楽曲も書いてはあるが、それらをほとんど聴くことがないのは、どういうことなのか。


 いやはや、日本も、楽曲消費社会へと以降しつつあるようだ。



 さて、この記事主さんが、嗚咽するようなニュースが、入ってきたばかりである。


 セカイノオワリのさおりさんの小説が、直木賞にノミネートされたというではないか。


 いや、いいのよ。彼女の作品がおそらく良いものであろうことはそれはそれでいいの。


 でも、文学界の潮流も、「やはり売れるもの、売れる要素を持つもの」へとシフトしていることは、こりゃもう誰もが気づいてしまったわけで。


 ネタ元も、ましてや受け手もそれでいい、と思って創作物が流通するんだったら、もはやこれは抗えないことなんだろうなあ、と一介のおっさんは思うわけで。



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 ちなみに記事主さんもちょっと言及しているけれど、私はすでに「儲からないけど、個人個人が喜んでもらえるための創作物」へと作るものをシフトしている。


 成果物は正直に言って1000円から5000円くらい。それを個人個人にカスタマイズして、文章やらモノやらでお届けする仕事をやりはじめているのである。


 金額が低いから儲からない。でも、考え方を変えて、1部1000円で、1万部の印税10%の金額が、100万円なのだとしたら。1000円印税100%なら、 1000部売ればいいわけ。


 それでも思うのは、きっと


「やりがいがあるのと食べていくことは違う」


とか


「好きなことを望むようにできる時代は終わった」


のだろうなあ、ということ。


 あ、今テレビ局のディレクターさんから電話かかってきたので、新たな創作ネタに入ります。




 

 









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