前回、前々回の当ブログでも取り上げた記事ですが、元ネタのほうはいろんな反響があったようですね。
幸い、当ブログは、セカイの片隅で小さくやっております。m(_ _)m あしからず。
さて、今回は「クリエータ養成講座」とは連動しないものの、同じテーマの記事があったのでご紹介しておきます。
見える承認欲求、見えない承認欲求 ~承認欲求に苦しんだ女性がたどり着いた「安定」~
小川たまき さん、というライターの方の記事です。
骨子は「承認欲求があるのは当然で、それ自体は悪いわけではないが、承認欲求が強いせいで心身に悪影響を及ぼしている場合は、どうすればいいのか」ということです。
詳しくは例のごとく元ネタをご参照ください。
特に、
「女性で、母親との関係性において複雑な愛情コミュニケーションをとらざるを得なかった人」
が、いわゆる愛情飢餓に苦しむことになるのかな、と感じました。
たしかに、話がぴったりあてはまる。
記事の後半には、そうした愛情飢餓、愛着障害を乗り越えた時の強さについて言及があるが、困ったのは、そのための方法が明示されていないことかな。
いや、そんな簡単な方法なんてないのだが、ポイントはいくつかあると思います。
① 承認飢餓を満たすものは、とりあえずは他者からの承認しかないので、他者の関わりが重要。
② 承認されているという何がしかの実感をもつこと(きっかけのようなもの)
なので、記事では、困っている人がいたら何らかの手助けができたらいいね、という当たり前の結論になるのですが・・・。
ところが、承認飢餓をこじらせてしまった人、というのは、第三者があっさりと「えー、そんなの思い過ごしだよ。あたしは、あなたを認めてるよ」くらいのあったかい台詞ではダメなんです。
もちろん、人によってですが、そんじょそこらの「承認」では足りないから苦しんでいるのであって、
「じゃあ、あんたが全身全霊をかけてあたしを愛してくれるっていうの?それでも足りないわ」
ということになる場合もあるやもしれません(^^;;
個人的な感覚では、究極的には、承認飢餓の原体験と向き合わない限り、無理なんじゃないかなあ、と思うのですが、どうでしょうか。
記事のAさんの例では、「根源がおかんにあるのだから、おかんと向き合って(おかんに愛されていると気づいて)苦しみが解決した」ということですから、そのまんまそうなんです。
クリエータ論で言えばですよ。承認飢餓のせいで「自分は創作者になりたい」と思う人は、創作者になったとしても、その飢えをおそらく満たせないのかもしれません。
おっそろしい話ですが、太宰治みたいなもんです。何やってもあかん。評価されてもあかん。いつも不安にさいなまされている。
そりゃまあ、承認飢餓によって、「創作に向かうベクトル」が生まれることは悪くないし、その結果仮に「有名になれた」とすれば悪くない。
けれど、それで「その人は幸せなのか?!」と問えば、怪しいわけです。
だからです。ここからは私の個人的主張ですが、創作によってアナタ・ワタシが残すべきものは「名声や承認」ではなく、「文化」だと良いよね、だと思うのです。
文化、ということばだけではわかりにくいでしょう。
うーんと、簡単に言えば「賞賛や承認があるからその作品がすごい」という結果を求めるのではなく、「その作品が次の時代を作った」とか「その作品が文化として受け継がれた」という結果を求めたいよね、という感じですね。
承認がなくても、文化として残る創作物はたくさんあります。マニアしか知らないけど凄い作品とか、みんなが当たり前に使っているけれど、誰が発明したかなんて知らないものとか。
でも、それを作った人はわかってます。自分で自分のことをわかってる。
ああ、これがいろんな人に使われて、これがいろんな人に伝達されて、(誰もほめてくれないけど)ああ、よかった。
と自分で自分を承認できるからです。
承認とは結局は「自己承認に至れるか」ですから、自己承認できる方法論として「他者からの承認」はほんとうはあってもなくてもいい。
けれど、「他者からの承認」は簡単なので、それが第一段階になっているだけです。
そんなことを感じました。
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