2014年1月11日土曜日

承認飢餓、なるもの (承認欲求)




前回、前々回の当ブログでも取り上げた記事ですが、元ネタのほうはいろんな反響があったようですね。

 幸い、当ブログは、セカイの片隅で小さくやっております。m(_ _)m あしからず。





 さて、今回は「クリエータ養成講座」とは連動しないものの、同じテーマの記事があったのでご紹介しておきます。





 見える承認欲求、見えない承認欲求   ~承認欲求に苦しんだ女性がたどり着いた「安定」~

 小川たまき さん、というライターの方の記事です。

 骨子は「承認欲求があるのは当然で、それ自体は悪いわけではないが、承認欲求が強いせいで心身に悪影響を及ぼしている場合は、どうすればいいのか」ということです。

 詳しくは例のごとく元ネタをご参照ください。

 特に、

女性で、母親との関係性において複雑な愛情コミュニケーションをとらざるを得なかった人」

が、いわゆる愛情飢餓に苦しむことになるのかな、と感じました。


 たしかに、話がぴったりあてはまる。



 記事の後半には、そうした愛情飢餓、愛着障害を乗り越えた時の強さについて言及があるが、困ったのは、そのための方法が明示されていないことかな。





 いや、そんな簡単な方法なんてないのだが、ポイントはいくつかあると思います。

 ① 承認飢餓を満たすものは、とりあえずは他者からの承認しかないので、他者の関わりが重要。

 ② 承認されているという何がしかの実感をもつこと(きっかけのようなもの)


 なので、記事では、困っている人がいたら何らかの手助けができたらいいね、という当たり前の結論になるのですが・・・。




 ところが、承認飢餓をこじらせてしまった人、というのは、第三者があっさりと「えー、そんなの思い過ごしだよ。あたしは、あなたを認めてるよ」くらいのあったかい台詞ではダメなんです。

 もちろん、人によってですが、そんじょそこらの「承認」では足りないから苦しんでいるのであって、

「じゃあ、あんたが全身全霊をかけてあたしを愛してくれるっていうの?それでも足りないわ」

ということになる場合もあるやもしれません(^^;;


 個人的な感覚では、究極的には、承認飢餓の原体験と向き合わない限り、無理なんじゃないかなあ、と思うのですが、どうでしょうか。


 記事のAさんの例では、「根源がおかんにあるのだから、おかんと向き合って(おかんに愛されていると気づいて)苦しみが解決した」ということですから、そのまんまそうなんです。

 
 クリエータ論で言えばですよ。承認飢餓のせいで「自分は創作者になりたい」と思う人は、創作者になったとしても、その飢えをおそらく満たせないのかもしれません。





 おっそろしい話ですが、太宰治みたいなもんです。何やってもあかん。評価されてもあかん。いつも不安にさいなまされている。

 そりゃまあ、承認飢餓によって、「創作に向かうベクトル」が生まれることは悪くないし、その結果仮に「有名になれた」とすれば悪くない。

 けれど、それで「その人は幸せなのか?!」と問えば、怪しいわけです。


 だからです。ここからは私の個人的主張ですが、創作によってアナタ・ワタシが残すべきものは「名声や承認」ではなく、「文化」だと良いよね、だと思うのです。


 文化、ということばだけではわかりにくいでしょう。




 うーんと、簡単に言えば「賞賛や承認があるからその作品がすごい」という結果を求めるのではなく、「その作品が次の時代を作った」とか「その作品が文化として受け継がれた」という結果を求めたいよね、という感じですね。


 承認がなくても、文化として残る創作物はたくさんあります。マニアしか知らないけど凄い作品とか、みんなが当たり前に使っているけれど、誰が発明したかなんて知らないものとか。

 でも、それを作った人はわかってます。自分で自分のことをわかってる。

 ああ、これがいろんな人に使われて、これがいろんな人に伝達されて、(誰もほめてくれないけど)ああ、よかった。

と自分で自分を承認できるからです。


 承認とは結局は「自己承認に至れるか」ですから、自己承認できる方法論として「他者からの承認」はほんとうはあってもなくてもいい。

 けれど、「他者からの承認」は簡単なので、それが第一段階になっているだけです。


 そんなことを感じました。

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