2013年10月10日木曜日

奈良美智さんとラッセンさんと村上隆さんについてのあれこれどれそれ

こんばんは

 アートとクリエーションにまつわるいろんなことが巻き起こっている最近ですので、一応触れておきます(^^

 こんな貧相なブログですが、期待してくださっている方も多いようなので・・・。ありがとう浜村淳です。

 
 さて、今週に入ってからアート界をにぎわしている(?)奈良美智「ラッセン嫌い」騒動。


 概要はこちらから↓(j-castニュースさん)


 
 まあ、簡単に言えば、「ラッセンファンと、奈良美智ファンがかぶっているかどうか」のあたりから、芸術論へと微妙に発展していくわけですが、奈良さんは、自身のファンがラッセンファンとかぶっているんだったら、超心外なんだそうです。

 アート、芸術というのは、究極的には「創作物に対しての解釈の違い」ですから、ある作家のファンというのは「その作家に対して共通認識のある解釈者・理解者の集い」と考えることができます。

 そのとき、Aという作家のファンとBという作家のファンを並べてみると、それらが「同じくくりで見れるか、見れないか」「芸術的な共通項があるか、ないか」あたりが議論になっていくのでしょう。

 
 それこそ解釈はいろいろあるでしょうが、一連の騒動は

「奈良美智さんの芸術性とラッセンさんの芸術性に共通項はあるか」

という点においては、議論になっていません。

それより

「奈良美智さんの商業的取り扱いとラッセンさんの商業的取り扱いに共通項があるのか」

というあたりのツッコミからスタートして、ちょっとずつベクトルがずれて

簡単に言えば

「奈良美智ファンのミーハーさと、ラッセンファンのミーハーさに共通項があるのかないのか」

が議論の中心へ移っているような気もします。私の理解不足だったらごめんね・・・。


 さて、そもそもファンとは「解釈者・理解者」なのですから、奈良さんからすれば自身のファンは、「自身の理念・考えがある程度伝達された相手」と考えるのがふつうで、もちろんその文脈で語っておられます。

ところが、商業セカイにおけるファンとは、一方で「ミーハー的に、「まぢこれ可愛い!」」という真の理解者ではない、表面的共感者をも含みます。

そもそもの議論は「奈良美智ファンと自称する表面的共感者とラッセンファンを自称する表面的共感者は、表面的共感者という意味において似ている」ぐらいの話なのでしょうが、それが「真の理解者なのかどうか」になってくると、こいつはどうもいけねえ。ってことに(苦笑)

なんでいけないかというと、「真の理解者にだけ伝達しているのが芸術なんだったら、商業セカイで販売するのはやめちまえ」になるし「表面的共感者(カワイイ!っておもってくれる一般ピープル)をバカにしてんのか」とか、そういうことにもなるからです。

ああ、やっかいやっかい猪八戒。

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そんな折、あの村上隆さんも、ツイートしてるもんだから面白い。


こちらは「なんでオレばっかり嫌われるんじゃ~」という意味の内容をつぶやきまくっておられます。

この話も根底ではつながっていて、奈良美智は芸術で、ラッセンは商業芸術で、村上隆はむしろ商業そのもの、みたいな暗黙のくくりがセケンの論調としてあるから、村上さんとしては、困ったなあとお思いになのも仕方ないというか・・・。


ちなみに、私は村上さんは「芸術界にパトロンたる貴族層なきあと、至極まっとうなことを言っている」と思うのですが、やっぱり直接的にそれを言ったらおしまいよ的オーラもあるようなないような(^^;

村上さんの理論は

「芸術起業論」

という本にまとめられているので気になる方はどうぞ。

お金学さんのブログで簡単にまとめられているので↓おすすめ。



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翻って、ボクタチあたしたちのやってることは、「芸術」??それとも「アート」??、はたまたただの「モノづくり」??

クリエータであることって、崇高な理念と毎日のショボイ生活とのハザマの中で、上いったり下いったり、迷ったりするこの「今」なんだと思います。

商業的に成功した作家さんは作家さんで「オレっていま芸術なのかな?それとも商業に成り下がってんのかな」と悩むだろうし、逆に市井の食えない作家は「商業的にも成功したいなあ」って素直に思うだろうし。

まあ、みんなで悩みましょう!それこそが生きている証!

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