2018年1月17日水曜日

文学とラノベの境界線がわかった! ~中学になったらラノベを読んではいけないのか~



 ちょうど1年ほど前に、ある方のツイートで


「中学になったらラノベなんか読むな」


という話が、賛否両論盛り上がったことがあった。


https://news.careerconnection.jp/?p=30733
(元ネタ キャリコネニュースより)



 その時は、ニュースをみても別段ああだこうだ思ったことはなかったのだが、昨日も創作にまつわるあれこれを書いているうちに、ふと思ったことがある。



 ああ、結局のところ、「文学」と「ラノベ」の差、違い、境界線とはココなのではないか!ということだ。





 近年のラノベ、特に「なろう系」のラノベのパターンは、


「主人公は、異世界で力も女性も思いのままのチート能力を持ったものに生まれ変わって活躍する」


というものであるという。



 チート、という言葉は、本来は「ズル」や「不正」を意味するように、


現実世界ではありえないくらい全てを手にしちゃう主人公がウハウハ


なのがウケるというのである。





 こうなる側面はわからんでもない。現実社会でも、実際の労働とは無関係のところで、


「ビットコインで億り人でウハウハだ!」


という話がウケているし、自分もそうなりたい!と願う人がわんさかいる。まるでラノベである。





 また、その昔、ある女の子に小説を書いてほしいと頼まれた際にも、


「現実では望むべくもないけれど、物語の世界では幸せにあの人と結ばれる話にしてください」


と言われたことがあった。 なるほど、それを突き詰めれば、読んで多幸感を得られるのは、異世界成功小説ということになるのはある程度いたし方ないだろう、とも思う。



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 しかし、それではなぜ、中学生はラノベを読んではいけないのだろうか。もちろん、最初の元ネタの人だって、「ラノベ」をひとくくりにしてダメだしをしているわけではない。


 その問題提起は、ちょうどこの↑直前に出てきていて、つまりは


「中学生になったら、多幸感だけを得られる物語を読むのは危険なのではないか」


という意味合いなのである。




 近年の「なろう系」ラノベの特徴は、徹底した「多幸感」の追及であり、そこに「挫折や停滞」の要素があると、瞬時に読者から批判が飛んでくるという。




 もちろん、個人的にはこのことそのものを問題視してはいない。だって、小説を書いてほしいと願った女の子に書き上げた物語に、好いた異性との「挫折」「停滞」シーンがあって、それがリアルな傷口を広げるハメになるのであれば、あえてそれを入れないということは、別におかしなことではないからである。

 

 だいたい、「暴れん坊将軍」やら「遠山の金さん」は、挫折もしないし苦悩もしない。周囲のものはえらくひどい目に合うことはあるが、主人公たちはアメコミヒーローも含めて常に最強なのである。そういう作品が世にあることそのものは、けして間違いとは言えないわけだ。 徹底した正義の追及だってかまわないのだ。



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 こうしたことから、単なるラノベ批判は別にして、いわゆる「文学・ブンガク」らしきものと、なろう系寄りの「ラノベ」にはどこに違いがあるのか、ということが浮き彫りになってくる。



 まとめると、


「人生における挫折・停滞・苦悩・ネガティブ体験を含む苦痛」




「人生における挫折・停滞・苦悩・ネガティブ体験を含まない成功」



の差異である。




 ざくざくざっくり言えば、


「挫折と苦悩を読書によって追体験できるのが文学」


であり、


「成功と多幸感を読書によって追体験するのがラノベ」


なのかもしれない。



 もう少し高度な分類をすると以下のようになる。



■1類 読者が体験できる(追体験が容易な)成功譚

 → 一般小説 若者向けならばジュブナイルや青春小説と呼ばれるもの




■2類 読者が体験できない(追体験が困難な)挫折譚

 →  SFやハードボイルドなど




■3類 読者が体験できる(追体験が容易な)挫折譚

 → 文学 と呼ばれるもの あるいは純文学




■4類 読者が体験できない(追体験が困難な)成功譚

 → ラノベ あるいはマンガチックだと言われるもの




 もちろん、成功譚と挫折譚を物語の結末だけで判断するのも難しいし、ラノベに挫折が出てきたらラノベでないのか、とかそういうややこしい話にはするつもりはないのだが、ざくざくっとイメージを捉えれば上のようになるだろう。



 ハリーポッターなどのファンタジーは、魔法が登場する時点で追体験不可能な話であり、ポッターの挫折と成長は、最後は成功を収めるものの、途中がけっこうしんどいので2類でカテゴライズできる。

 そういう意味では、中東のテロリストと戦う傭兵の話なんかは、日本人の普通の人間にとっては2類だが、イギリスの軍人にとっては追体験できるので一般小説であり、ファンタジーではない。


 しかし、イギリスの軍人が傭兵となってテロリストと戦い、苦悩のうちに死んでいく回想録は、ヨーロッパではおそらく「文学」であると受け止められるだろう。映画で言えば、プラトーンの世界だ。


 夏目漱石がなぜ文学なのかと言えば、明治時代で文明開化してすぐなのに、「日本人として生きる上での悩み」を描いたから「こころ」や「それから」は文学なのである。逆に「坊ちゃん」がなぜ文学でないのかは、挫折文学ではなく、むしろ成長文学・成功文学なので1類なのだ。


 ヤミ金ウシジマくんは、マンガではあるものの、「体験できるがおなじ体験はしたくない」というギリギリラインを攻めているので、半ば文学であり、半ば通俗小説である。でもまあ、個人的には、文学的要素が詰まっていると思う。




 体験できるかどうかが重要なのは、読者と物語の間に「共感性」が生まれるかどうかと関わるからである。



 小説とは、個人の体験や考えを万人のものとする

 
ための技術やメディアであるから、共感されるかどうかは、大きなツボとなるのは自明であろう。



 そして最後のラノベ。異世界や起こりえない世界の上で起こることや、たとえ実際の世界が舞台でも追体験しにくい出来事で構成されて、なおかつ成功譚であることは、ラノベである。


 たとえば挫折しないワンピースとか、敵が弱すぎるドラゴンボールだったりすれば、もはやそれらはラノベであると断言してもよいのだ(笑)


 「君の名は」がラノベ臭を漂わせているのは「あまり挫折しなくて、かつあり得ない話」だからである。


 「エヴァンゲリオン」は「体験不能な挫折譚」なので、文学まで昇華されずSFで持ちこたえている(笑)


 「涼宮ハルヒの憂鬱」は、宇宙人や未来人と逢えない点で「体験不能」であり、実はキョンくんはほとんど挫折も成長もしていないので、やはり「ラノベ」である。



 ちなみにカフカの「変身」は人が意味なく虫になってしまうという「体験不能な世界であり、かつ挫折譚である」から文学ではなくSFである(笑)



 え?きめつけ??(^^;;


 
 しかし、人間には「体験しえないものを空想する力」というものがあるので、


「ある日キモイ虫に生まれ変わっていた」というカフカの変身を


「ある日、キモイ生き物のごとき引きこもりになった」とか

「ある日、ばい菌のような存在に生まれ変わった」とか

「ある日、ゴキブリ野郎もしくはヒキニートになっていた」とか


そういうある種のたとえのように受け止めること(つまり共感)ができれば、これは文学に変容するのかもしれない。



 なので、「逃げちゃだめな少年」という設定において共感したり、「父と子と軋轢」という関係性において共感できる人間にとっては、エヴァは文学足りうるということになるのだろう。


 


 
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 というわけで芥川賞を狙うなら、市井の人がぐっといろいろ苦しむ話をかけばいいらしぞ。ぐはははは。



 そして、直木賞なら、市井の人がいろいろ頑張る話をかけばばっちりだそうだ。ぬはははは。















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